昭和50年01月14日 朝の御理解



 御理解 第33節
 「お供え物とおかげは、つきものではないぞ。」

 沢山のお供えをするからおかげを受けるとか、お供えが出来ないから、おかげを受けないとか言う事でない事は、全然ここの教会に、お参りした事のない、唯噂だけ聞いて知っておってそしてまぁ、合楽の金光様にお願いをしたらと思いついて電話を掛けて来る。それでおかげを受けておると言う事実から見ても、確かにお供え物とねおかげが付き物ではない。電話でどもお願いしてから、お供えもせんお賽銭も上げんのに、そげんとにおかげはやらんと仰る様な神様じゃない事が解りますね。
 十日にもなりますか、浮羽郡のほうに萩教会と言ったかね、教会のご信者だそうです。唯合楽の事を噂で聞いて、今佐世保のほうへ行っておられますという。何とか癌という私が直接受けなかったが、癌でもう大変末期症状でもう、大変な苦しみです。それでそのお医者さんが、あの親戚の方達が同意をなさるならば、言わば殺す注射があるそうですね。もう早く楽にしてやりたいと言う訳なんです。
 言う事も出来るのだと、お医者さんから言われてね。それではどうぞお願いします、とても肉親のものやら身内のものが見ちゃおられんと言う訳です。それであの泣き泣き、それこそ電話が掛かって来たとそうです。お参りもした事がない。私は大体が萩の教会の信者で、何とかさんといったっけ何とかあ、南部さん。そう南部善五さんち言う、南部善五さんという方がご病気なされている。ね。
 それでもう本当にあの注射をして貰う寸前にです。ぱっとその思い付かれたのが合楽の事であった。とにかくほんなら合楽の金光様に、もう一遍お縋りをして見ろうというて電話を掛けておりますというのだったそうです。で、直ぐ私の所へ参りましたから、直ぐお取次ぎさせて貰いました。翌日また電話が掛かって参りました。そん時は又末永先生が掛かっておった。おかげを頂いて本当にあの電話をさせて頂ました。もう本当にその時からね、苦しみが段々安らいでおかげでその苦しまなくなった。
 唯足の方が少ししびれておりますから、どうぞよろしくと言う事であった。それから三日四日目でした。その時に私は、此処に座っておる時に、此処へ電話が掛かって参りました。おかげを頂いてご飯を頂く様になったち言うんです。どぞ一日も早うお礼参拝が出来ます様にというお願いであった。ね。お供えをしなければ助からんと言う事じゃないですね、確かに。ね。所が私はその時思いますけれども、電話料が幾ら掛かったかは解らんですけれども、どうぞ神様その電話料がお賽銭。
 こういう気持ちでお取次ぎさせて頂ました。ね。又御教えに庭の塵までもと仰った。氏子がですねもう本当にお賽銭もない。その時にはね、庭の塵までもとこう。だからそのお供えをするなと仰っていないと言う事です。ね。真心は形に現さねばいけないと言う事です。ね。それは庭の塵までも良い。ね。私共も修行の時分にもう愈々お賽銭がなくなりますと、当時福岡の教会におりましたから、ね。福岡でもあちらこちらへお話に参ります。そすと私が何時もテクテクその、何処までも歩いて行くもんですから。
 あの当時どの位でしたでしょうか。福岡の市内を走っておる電車の回数券を一冊づつ、お供えをする方がありました。それでもやっぱり乗らんで歩きます。そしてもう愈々お賽銭がない時には、それを一枚づつ千切ってそれがお賽銭でした。場合にはもうそれこそあの金の端にもならない、言うならあの時分に証紙というものが買い物をする時に渡っておった。あの証紙が財布の中には入ってもう此れが最後財布を叩いて、それをお賽銭にしてもう神様相済みませんと言うてその、お供えさせて頂ました時にですね。
 百円のお賽銭が出来る様になっても、此の気持ちは忘れるなと言う意味の事を頂いた。その当時の百円というのは、大きなですからね。ね。又またの御理解に氏子が真から用いるのは神もひれいじゃがと仰った。氏子が真から用いるのは神もひれいじゃと言う事。昨日秋永先生が研修、あの昨日一昨日ですか、久留米地区のあれが先生方がちょっと秋永さん、こっちへ来いと言われるから行った。所がまぁ合楽の事を色々聞かれてです。宮の陣の先生が、私は今朝方この会合のあるその朝夢を頂いた。
 そして自分が御本部の偉い先生方ばっかりの所の会合に出席しておるお夢であった。そしたらその御本部の偉い先生が言われるのにね、合楽の信心がほんなこつだと言うて、力説される所を頂いた。というてその秋永先生に言われたと言う事を、昨日聞きました。それで私は、秋永先生にですね。私はもうだからそう言う風に、合楽の信心を求める姿勢を作られておると言う事が解ったから、今のもあるはかなさか合楽のゴヒレイを皆さんに聞いて頂いたらもう、唯只もうたまがるもう驚きだったと言うておられます。
 月次祭に何百本お神酒のお供えがあるというて。ね。お参りは日に此れ是お供えはこんな状態だと。私も夕べ十二時ごろ久富繁雄さんと二人でお初穂の整理をしておりました。そしたら丁度北野の共励会から帰って来た、久富先生と大和さんがあの帰って見えました。「久富先生ちょいとあの蔵ば覗いて下さい」「何の」ち「ちょいと覗いて下さい」そしたら、綺麗に整頓が出来ておって、もうお酒が一杯蔵に詰まっています。私が言いよりました。ね。本当に酒倉を建てる様にと言う事。もう四段積みにしてある。ね。
 だからそう言う事を例えばあの聞くなら、本当に人がびっくりするだろうと思うです。此れはしかし、やっぱりおかげを受けて、皆んながお供えした物。ね。昨日は初の十三日会でした。もう昨日は皆さんがもう全部あの全員の人達がもう、一分間づつでももう一口でもまぁ今年の信心の、銘々の抱負を語ってくれと言う司会が言っておりましたから、その全員皆さんのお話を聞きました。もう一人一人の話を聞いて一人一人拍手喝采を送りたい様なお話でした。
 その中に安藤さんのお父さんが、こう言う発表をなさっておられました。おかげを頂くから、信心が解ると。信心が解るから、又おかげを頂くと言う事を言ってられます。ね。おかげを受けるから信心が解る。此処ん所がね、こらもう本当にあの安藤さんで言える事なんです。安藤さんのお父さんで言える事名んです。大概の者はねおかげを受けて信心が解るのじゃない。ね。おかげを受けて何かが解るち言うでしょう。神様の働きは解る訳です、おかげを受けるから。働きが解っただけじゃ駄目です。
 おかげを受けたら信心が解らなければ。只有難い頂く時に有難い有難いと言うとったっちゃ駄目なんです。おかげを受けたら信心が解る。だからこそ信心が解ったらもう、解った信心に対して神様はおかげを下さっておる。安藤さんのお父さんの信心は、こう言う生き方です。最近それを本当に感じます。ね。そんなら、ね。おかげを受けて信心が解り。信心が解ると言う事は、ほんならどの様な事かと言う事なんです。信心が解ると言う事はどの様な事か。ね。
 皆さんが毎日拝詞を唱えなさる中に、ね。神も助かり氏子も立ち行く道の開かれましたことはと言う所がありますね。神も助かり氏子も立ち行く道。金光様のご信心は、そう言う道なのです。唯信者がおかげを頂くというだけじゃないのです。信者の助かる事によって、神様も又それに縋って助かろうとなさっておる神様なんです。そこが違うでしょうが。ね。天上天下唯我独尊とか、または天上の言うならば、高天原に神留まって御座ると言う様な神様ではなくてです。
 受けたおかげを受けたその氏子にすがって、そして神様も助かろうとなさっておられる神様です。ね。そこで神も立ち行き氏子も立ち行くと言う事をね、願われております。其処でほんならおかげを受けたから、唯有難いというとるだけで良かろうはずがない。信心が解らなければならない。で信心が解るとどう言う事になって来るか。私は昨日沢山な方の一人一人の発言を、全部その要点の所だけを書き留めさせて頂いて。もう後で読ませて頂いて、素晴らしい素晴らしいと思いました。
 皆さんがそしてそれを実感である。本当な出来る出来んは別としてです。今年は此れで、本当に行こうと言うそれを、私読ませて頂いておりましたら。神の手になり足になるという事を頂きました。昨日皆さんが発表なさいました。ね。その発表の要点をずうっと読み返させて頂いておりましたらね。神の手になり足になると言う事でした。皆さんが発表された一人一人の発言はです。ね。
 今年こそ言うならば合楽示現活動にとか、ね。今年こ親先生と神様に喜んで頂く信心とかと言う様な意味での表現を、皆さんがなさいました。と言う事は取りも直さずそれはどう言う事かというと、神の手になり足になると言う事です。今合楽でこのカセットだけが、三十何台毎日出ております。ね。ですから言うなら一人のカセットを持っておられる方が、五人の方に話を聞いて頂くと言うと、どう言う事になりましょうか。三五十五、ね。百五十人ですかの人に、お話を聞いて頂く事になるんです。
 ですから神の手になり足になると言う事は、又神の口にもならなければいけない。又は、場合には拡声器代わりにもならなければいけないと言う事なんです。ね。今例えば池田さん辺りが、電車の中でもバスの中でも一生懸命にその信心、おかげを受けた事実を話される。そすとね周囲の人達がこう耳を傾けて聞くそうですよ。そしてから話よったとこでない向こうの方の人が、今日は結構な話を聞いて有難う御座いましたというて、お礼を言われると言う事です。ね。
 ですから神の手になり足になると言う事は、神の言うならば口にもなる。場合には拡声器代わりにもならせて頂くという、その心なんです。同時に私は今日此処お供え物とおかげは付き物ではないけれども、ね。ほんならおかげを受けたら、それを如何に現すかと言う事なんです。それが言わば安藤さんじゃないけれども、ね。おかげを頂いてやっぱ神様ちゃ御座るばいと、神様の実在を認めただけじゃ出来ん。その神様の心が解って、ね。その心に添い奉ると言う事が信心なのです。
 神の心を心として所謂、天地日月の心と言う事なのです。ね。そういう心を心としての行き方を、段々させて頂いておると、口にもならなきゃおられない。手にも足にもならなければおられない。ね。同時にですね。大きな御用もさせて頂かなければおられなくなって来るから、又おかげが拡大されて来る訳です。だから此処ん所を間違えてね。お供え物とおかげは付き物ではない。それは先程も申しました。
 電話一本でまだお礼お届けも、もうそれこそもう、その死の寸前ですよ、その注射をしたらもう終えるとでした。そん時はっと自分が金光様の信心を頂いておったおかげで、合楽の噂を聞いておったおかげで、一遍合楽にお願いをしてみろうと。そしてそれまで待って下さいと、待たせた所がまぁおかげ頂いてから、痛みがその時点から取れただけではなくて、それから二三日目にはご飯を頂く様になったと言うのです。だから一日も早うお礼参拝が出来ます様にと言う様なお願いであった。ね。
 でそういう例を言うならば幾らも、切りがありませんね合楽の場合は。お供えをしなければ御神米を頂けないと言う事もない。此処の場合はそうです。ね。そん代わり皆さんに普通は下げませんけれども。だからお供え物とおかげは付き物ではないと言われるから、お供えせんでも良いと言った様な考え方は、此れは間違った考え方なんですよね。だからそれが本当に、一円よりも十円、十円よりも百円と云う様にです。ね。おかげの頂けれると。自分の信心の一つの証と言う物はです。
 どれだけお役に立てれる様になったかと言う事なんですよ信心とは。ね。だからこそ言うならば神様の言うなら、働きが十二分に出来る事に成って来るのです。ね。此処の所の言うならば頂き分け、ね。お供え物とおかげは付き物ではない。けれどもおかげおかげが能では無いと言う事。信心は所謂信心が解る事だと言う事。おかげを受けて信心が解る。信心が解るからおかげが付いて来る。おかげが付いて来るから、お役にも立たせて頂けると言う事になります。ね。
 皆さんが昨日十三日会に集まられて一人一人のその発言がです。ね。今年こそはと神様に喜んで頂く、親先生に喜んで頂く、ね。愈々本腰を入れて合楽示現活動に参画させて貰うという、様々なそう言う皆さんのお話を聞かせて頂いて、それをひっくるめて纏めて見ると。言うならば神の手になり足にもならせて頂こうと言う事であったと言う事であります。ね。其処ん所の私はその考え方と言う物がです。例えば今日のお供え物とおかげは付き物ではないと言うのと頂分けて、そして愈々本当な信心それこそ大きな御用がね、それこそ有難ーく出来るおかげを一つ頂きたいもんですね。
   どうぞ。